2013年11月10日日曜日

第13回東京例会 発表概要 平本幸生

 来る12月8日に行われる日本音楽理論研究会第13回東京例会で発表する平本幸生氏の発表概要を掲載いたします。

「自作曲の分析と、和声学の例外的用法」 

私たちが普段耳にしている音楽は、必ず、どこかの誰か(個)が生み出したものである。そして、その作品が、その作者を含め、他者の心を動かすということが、なぜ、そして、いかにして可能なのであろうか。

まず、上の問いの「いかにして」の部分について述べることにする。やはり、作者本人の実感に基づいて、その作者が作りたいように作った作品が、本人のみならず他者への感動をもたらすように思う。このことを基礎として、更に、楽曲の構成においては、客観的な実際があるようだ。これまでの数々の、音楽における実践、経験、また、分析の結果、ある共通性がみられ、それが現在、理論(theory)として知られるようになった。これらの理論には、リズムに関するもの、楽式に関するもの、旋律に関するものなど、多岐にわたる。そして、特に、和音とその進み方についての理論は和声学と呼ばれ、倍音などをはじめ、自然との関わりも深く、客観性が強いように思う。

ところが、興味深いことに、実際の音楽においては、これらの理論はいかなる場合においても、適合しているというわけではなく、理論からみて例外もみられる。すなわち、音楽理論は数学の定理や、物理学などにおける法則とは異なり、常に成立するものではなく、不完全であるという特徴がある。こう聞くと、これはよくないことのように思われる方もいるかもしれない。しかし、それは違う。逆である。むしろ、不完全性こそが実際の音楽に対し、芸術の理論としての役割を果たしているとさえいえるのである。その理由は以下の2つである。

1つ目は、その楽曲において、理論に対する例外的な部分が魅力的であったり、作者の個性が現れていると感じさせるからである。このことは、文面では伝えにくいが、例えば、俳句や短歌において成立した、五・七・五、五・七・五・七・七というリズムがあるが、時に字余りなど、そうする方がかえって魅力的であるといったようなことを考えてもらえばよいかと思う。このように、理論の不完全さは結果的に、芸術としての魅力、個性をつめこむ“すきま”を与えている。

そして2つ目は、音楽をすることの根本に関わることである。もし、仮に音楽理論が完全なものであったとしたらどうであろうか。すごく便利でよいものに思われるかもしれない。ところが、もし理論が完璧だったとすると、私たちが音楽をする際、その根拠を、自分自身にではなく、常に理論に求めるようになり、このことは、私たちの音楽をする本来の目的を果たさなくなる。作者の自己の実感に基づき、本当に作りたいように作ったものが、他者の心をも動かすとはじめに述べた。完璧な理論が存在する場合、このようなことは起こりえなくなる。理論の不完全性は、私たちが音楽によって自分自身と向き合い、主体性をもちうるということを可能にしている。

さて、まだまだ不勉強な身ながら、私もポピュラー風の調性音楽を作っている。その際、やはり例外的な事象に遭遇することがある。今回は、特に和声的な観点での例外が見られる楽曲を楽しんで聞いていただけたらと思う。

最後に、はじめの問いの「なぜ」の部分についてであるが、これは難問である。「私」から「普遍」へのこの不思議なつながりを、今後も考え続け、表現力を磨いてゆきたい。

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